萩 幕末関係史跡



【松蔭神社】
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 吉田松陰を祀った神社。松陰の実家・杉家の邸内に実兄の杉民治が土蔵造りの小祠を建てて、 松陰愛用の硯と書簡を神体として祀ったのが始まりで、その後、明治40年(1907)に 松下村塾出身の伊藤博文らにより創建された。境内には松下村塾や幽囚ノ旧宅が残されている。

【松下村塾】
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image-1  吉田松陰が主宰した私塾。当時、この地域が松本村と呼ばれていた事から松下村塾と呼ばれた。 実家杉家にあった小屋を改造して塾舎としたもので、8畳の講義室と増築した10畳半の 控えの間があるだけの平屋建て50m2程の小さな建物。 松蔭は身分や階級にとらわれずに塾生を受け入れ、広範な学問を教え、一年一ヶ月ほどの間に 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文などの幕末維新期に活躍し、日本の近代化に重要な役割を担った 多くの人材を輩出した。

【松下村塾 屋根裏】
image-1  天井の板が外せて屋根裏に上れるようになっている箇所がある。本当か嘘かは分からないが、 松蔭は塾生を畳で休ませて、自分はここから屋根裏に上って休んだと言われている。

【吉田松陰幽囚ノ旧宅】
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 吉田松陰が安政2年(1855)から幽囚された家。松陰は伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、 江戸伝馬町の牢から、萩の野山獄に入れらた後、釈放されて父杉百合之助預けとなり、ここに幽囚された。 その後、安政5年に老中間部詮勝の要撃を企てたため、野山獄に再入獄される前、再びここに幽囚された。


【吉田松陰誕生地】
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image-1  街の東側山腹の団子岩に位置する吉田松陰誕生地。松蔭は天保元年(1830)に萩藩士杉家(26石) の次男として産まれ、19歳までここで過ごした。非常に狭く簡素な造りだった。 嘉永6年(1853)に杉けが転居した後は荒れ果てていたが、大正時代に整備された。 建物の敷石と産湯の井戸が残っている他、高台に銅像も建てられている。

【吉田松陰の墓】
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image-1  吉田松陰誕生地の横には墓所があり、松蔭の他、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作などの 維新志士の墓が並んでいる。


【菊ヶ浜土塁(女台場)】
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 文久3年(1863)の馬関砲台からの外国船への砲撃後に、外国船の来襲に備えて築かれた土塁で、 高さ3m、幅12m程の土塁が約50mに渡って残っている。 この土塁を築く際、武士の妻や奥女中の功績が大きかった事から、女台場と呼ばれている。


【萩反射炉】
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image-1  安政3年(1856)に造られた鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉。 現在残っている煙突部の遺構は高さ10.5m程で、オリジナルのオランダの物に比べると かなり小さく、実用炉ではなかったと思われるが、試験的に操業された記録が残っている。 実用炉の築造は、技術的にも費用的にも難しく断念した。 当時、佐賀藩が嘉永4年(1851)に日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩・伊豆韮山代官所、 水戸藩、萩藩が続いたが、現存する反射炉は伊豆韮山と萩のみで、国の史跡に指定されている。 最近、産業革命遺産として世界遺産に登録されたらしく、盛り上がっていた。