勝山御殿跡

image-1
 幕末の元治元年(1864)、激しくなる外国艦隊からの攻撃に備えて、それまで海沿いにあった 櫛崎の陣屋の代わりとして、第13代長府藩主毛利元周により、わずか7ヶ月の突貫工事で築かれた居館。 艦砲射撃を避けるため、海から4km離れた中世山城の麓に築かれ、石垣の上部には砲撃に備えた 土塁が築かれた他、砲撃の的となる櫓は設けられないなど、砲撃戦の備えに特化した城だった。 明治に入り長府藩が豊浦藩となった後も豊浦藩庁として機能したが、明治4年(1871)の 廃藩置県の際に廃城となり、明治6年(1873)までに解体された。現在は石垣が残るのみだが、 近年発掘を終えて公園として整備されている。


【三ノ丸虎口】
image-1 image-1 image-1
 直線的な階段の両脇に横矢の役割をする石垣が築かれ、両袖枡形のような形状になっていた。 現在でも西側の突き出した石垣が良く残っている。

【三ノ丸跡】
image-1 image-1 image-1
image-1  二ノ丸と三ノ丸は埋没していたが、近年の発掘調査により周囲の石垣が発見された。 三ノ丸内部は現在公園と駐車場になっており、車道を挟んだ一段高くなった部分が二ノ丸との 境界と思われる。

【三ノ丸西側】
image-1  勝山御殿は山麓の谷地に築かれており、城の両側には川が流れ、堀の役割を果たしている。


【二ノ丸跡】
image-1 image-1 image-1
 三ノ丸と道路を挟んで一段上がったあたりが二ノ丸跡。本丸表口の全面を守る曲輪。 周囲の石垣は下半分のみで、上半分を土塁とすることで、砲弾が飛び散るのを防ぐ造りとなっていた。

【二ノ丸東側】
image-1 image-1  城域の東側にも小さいながらも川が流れており、西側同様、堀の役割を果たしていたと思われる。


【本丸表南側石垣・石段】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 本丸表の南面には高さ6〜7m程の見事な石垣が残っている。斜めに目地が入る特徴的なもので、 この積み方は広島県西部で発展した山形積と呼ばれる積み方らしい。石垣の中央付近には 直線状の石段が設けられ、両側には鈍角のシノギ角を設けて枡形構造とし、両脇に大砲を置き 守りを固めていた。石段の上部に表門が建てられていたが、現在は了圓寺に移築されている。

【本丸表】
image-1 image-1 image-1
 広大な本丸跡。上下二段に区画されており下段は表、上段は奥として使われた。 砲撃の目標となる櫓などは設けられず、平屋の殿舎が建てられていた。 本丸表は主に政務を行う公的な場所で、残っている『指図』によると御殿には大小あわせて 10以上の居間があったらしい事が分かっており、一部は市内の寺などに移築されている。 また、砲撃の被害を軽減するために、周囲の石垣上には土塁が築かれていたらしいが、 南側の一部に残る土塁はその名残りだろうか?

【本丸表西側】
image-1  本丸表の西面も斜面に沿って高さ4〜5m程の石垣が続いており南北二ヶ所に虎口が設けられている。

【本丸表西側虎口】
image-1 image-1 image-1
 本丸西面に設けられた二ヶ所の虎口のうち、南側の虎口は内枡形のような形状になっているが、 公園化により改変されている可能性が高く、どこまでが

【本丸表西側虎口】
image-1 image-1 image-1
 本丸表西面に設けられた二ヶ所の虎口のうち、北側(奥側)の虎口。虎口を入るとすぐに本丸奥の石垣が設けられており、 内枡形のような形状にも見える。

【本丸東側虎口】
image-1 image-1 image-1
 本丸東側にも内枡形状の虎口の石垣が残っている。


【本丸奥】
image-1 image-1 image-1
 本丸表の北側、一段上がった部分に位置する本丸奥。藩主の婦人や私的な居室として使用された場所。 表と奥とは高さ1.5m程の石垣で分けられており、直接通じる虎口はなく古絵図によると、 中央付近で渡廊下で接続されていた石垣中央付近には何らかの礎石が残っており、 もしかすると、この辺りに渡櫓が設けられていたのかもしれない。

【本丸奥 西側石垣】
image-1 image-1 image-1
 本丸奥の西側石垣は丸みを帯びた特徴的な形状。幕末期の砲台建築の影響と思われる。

【本丸奥西側虎口】
image-1  本丸奥には西側の虎口一ヶ所のみしかない。当時はここの虎口と本丸表からの渡り廊下からしか 本丸奥に入れないようになっていた。


【青山、勝山、四王司山】
image-1 image-1 image-1
 勝山御殿は三方を青山、勝山、四王司山の三山に囲まれた深い谷筋に築かれており、 これらの山の山頂付近には中世の山城も残っている要害堅固な場所。 現在は城跡を起点としたハイキングコースとなっており、城見学よりハイキングに訪れる人の方が多かった。


【覚苑寺 庫裏】
image-1 image-1 image-1
 市内の長府藩の菩提寺にもなっている覚苑寺に残る庫裏は、明治6年に勝山御殿の本丸御殿の 玄関を移築したもので、屋根瓦には毛利氏の家紋も残っている。発掘調査の結果、本丸御殿の 玄関の礎石と、この庫裏の礎石とが全て一致していることが分かった。

【覚苑寺 鋳銭所跡】
image-1  ちなみに、覚苑寺は、国内最初の貨幣として有名な『和同開珎』を鋳造した長門国貨幣所の跡地で、 銅銭や鋳型などの銭貨鋳造用具が多数出土しているらしい。現在は国の史跡に指定され、 鋳銭遺物は重要文化財に指定されている。


【了圓寺 山門】
image-1 image-1  本丸表の表門は現在、了圓寺の山門として移築されている。 ちなみに、は高杉晋作が立て籠もった寺として知られ、本堂には当時の刀傷が残っているらしい。