高嶺城跡

image-1
 弘治3年(1557)に大内義長により築かれたが、毛利元就の大軍に攻められると、 義長は籠城することなく豊後に落ちていき、その後、毛利氏の城となった。 永禄12年(1569)に大内義弘が大友氏の援護を受けて攻めたが、毛利軍は籠城し 落とすことが出来ず、筑前から戻った市川経好率いる毛利勢に破れ、義弘は周防茶臼山で自刃した。 その後も毛利氏の城として、市川経好、柳沢元政、佐世元嘉らが城番となったが、 一国一城令により廃城となった。


【山麓〜出丸】
image-1 image-1  南側の山麓から出丸までは舗装された車道があるが、かなり道幅は狭く、片側は崖になっている 場所もある上、すれ違える場所も少ないので、、対向車が来たら結構危ない。久々にヒヤヒヤする山道だった。


【出丸】
image-1 image-1 image-1
image-1  城域の南側山腹、車道の終点となる現在TV塔が建てられている場所が出丸のあった場所。 TV塔の南に回ると、2段程に削平された曲輪が見られる。当時はここから山麓の屋形に続く 登城路があったらしい。

【出丸からの眺め】
image-1  山麓の山口市内との比高は出丸で200m程。市内が一望出来る。


【腰曲輪】
image-1 image-1 image-1
image-1  出丸からの登城路の途中には数段にわたり、削平された曲輪跡が見られる。 広い曲輪もあり、山城にしてはかなりの居住性があったと思われるが、周囲に土塁や堀などは 見られないシンプルな(古い?)つくり。


【主郭】
image-1 image-1 image-1
 比高250m程の高嶺山頂に築かれた主郭。『砦』とも呼ばれていた場所で、 この曲輪の周囲にのみ堅固な石垣が築かれている。

【主郭南側石垣】
image-1 image-1 image-1
image-1  主郭の南側の石垣。高さ2〜3m程の石垣が2段になって築かれ、途中に虎口の石段も見られる。 この時代はまだ高石垣を築く技術に乏しかったものと思われる。

【主郭西側石垣】
image-1 image-1 image-1
 主郭西側の石垣。隅部の崩れている箇所は、一国一城令による廃城時の破城の跡と思われる。 これほど分かり易く隅部だけ崩されている石垣も珍しい。

【主郭西側石垣】
image-1  藪になっていて見にくいが、西側の石垣も二段になっており、下の段の石垣は3m以上の高さがある。

【主郭北東面石垣】
image-1 image-1 image-1
image-1 image-1 image-1
 主郭の北東に残る石垣。この辺りの石垣が最も良く残っている。北隅にも破城の跡が残っている。


【主郭北東面石垣】
image-1 image-1 image-1
 主郭の東側石垣下の帯曲輪に残る井戸。かなり深いが、ポンプが設置され現在も水が出ている。 現在は金網で覆われているが以前は何もなかったらしい。藪化すると危険極まりない。