櫛崎城跡

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 周防灘に突き出した半島状の高台に位置し、関門海峡を抑える重要拠点として古くから城が築かれていた。 戦国期になると、大内氏の家臣の内藤氏により城が築かれた記録が残っている。 その後、関ヶ原で敗れた毛利氏は防長2ヵ国に減封となり、長府6万石の領主となった毛利秀元の 居城として整備された。現在見られる石垣などの遺構は、この頃のものと考えられている。 元和元年(1615)の一国一城令により、築城後わずか13年で廃城となり、その後秀元は山麓に 長府陣屋築いて居館とし、幕末に勝山御殿へと移るまでの250年間、長府毛利氏の政治の中心となった。 現在、城跡は関見台公園として整備され、天守台も復元されている。


【本丸】
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 城域の最南端、比高20m程の高台に位置する本丸跡。現在は周囲が埋め立てられて分かりにくいが、 当時は海に突き出した岬だった。東に天守台が復元され、西端には水族館の名残のクジラが建てられている。

【復元天守台】
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 本丸の一角に復元された天守台。二つの付櫓が付属したているが、実際に天守が建てられていたかは不明。 古絵図によると、関見櫓と書かれている。また、天守台には礎石も置かれていたが、あまりに綺麗に 復元されているため、どこまでが遺構かはよく分からない。。


【二ノ丸石垣】
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 本丸の北側に二ノ丸が設けられた連梯式の城。二ノ丸内部は住宅地となっているが、西側には 高さ6〜7m程の立派な石垣が100m以上にわたって見事に残っている。


【松崎口】
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 二ノ丸の北端に位置する松崎口。当時はここに大手門の二重櫓が建てられていた。 現在も立派な石垣が残っており、石垣上には多門櫓のような建物があるが、これは民家らしい。


【豊攻神社】
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image-1  城域の北側に位置する豊攻神社。比高20m程の独立丘で、当時は出丸として機能していたらしいが、 特に遺構は残っていない。


【長府陣屋跡】
image-1  西側の山麓、現在高校の敷地となっている辺りには、廃城後に長府陣屋が築かれ、 江戸期を通じて長府毛利藩の政治の中心地として利用された。 城域と高校との間にある駐車場付近が当時の堀跡と思われる。

【舟入跡】
image-1  当時は長府陣屋跡のすぐ北側まで海で、現在高校のグラウンドとなっている辺りには 舟入が設けられていた。


【城域南側】
image-1 image-1  城域の南側、現在埋め立てられて病院になっている辺りも当時は海で、 まさに海に突き出した岬だった事が分かる。