【龍福寺】 |
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弘治3年(1557)に毛利隆元により、大内義隆の菩提寺として城館の跡地に建立された龍福寺。 本堂は、大内氏の氏寺だった興隆寺の釈迦堂として文明11年(1479)に建てられたものを 明治期になって移築したもので、重要文化財に指定されている。 |
【東側 土塁・土橋跡】 |
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居館東辺の土塁と中程に残る土橋跡。現在見られる居館の外周部は何度か拡張された後の 最盛期の頃のもので、周囲は土塁と堀が巡っていた。現在、土塁は復元され、堀跡には砂利が 敷かれている。また、堀には土橋が設けられており、その跡が平面展示してある。 |
【東側台所跡】 |
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東側の土橋を入った場所には石組かまどや水路跡が残っている他、かまど周辺からは 調理具なども多数見つかっている事から、この辺りは台所だったと考えられいる。 |
【建物跡】 |
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建物の礎石にあたるせん列が見つかっている。西側に建物があるため、東西幅は不明だが、 南北4.6m程の建物で、蔵として利用されていたものと思われる。 |
【池泉】 |
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館跡の南東部に位置する南北約40m、東西約20mの池の跡。1400年代末に造られ、 大内氏が滅亡する1500年代中頃まで使われたらしい。池の縁の石列も見つかっており、 池の西側には池を眺める建物があったと考えられている。 |
【石組井戸】 |
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池泉の南側に残る井戸跡。内径1.2m程の石組み井戸で、池泉と同時期に掘られ、 1500年代前半には埋め戻されている。金箔を貼った土師器皿が出土したらしい。 |
【南側土塁・堀跡】 |
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南辺にも高さ50cm程の土塁が復元され、その外側の堀跡が砂利で示されている。 また、中央付近には寺の入口である山門が設けられている。 |
【残存土塁】 |
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山門脇に残る僅かな土盛りは、当時の残存土塁の一部との事だが、ほとんど残っていない。 草木が植えられており、少し耕したら消えてしまいそうなもの。 |
【石組井戸】 |
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南側の山門から大殿大路まで参道が延びている。最盛期には大殿大路辺りまで居館だった 可能性もあるらしい。また、参道の横には領内の井戸端で布教活動を行ったと言われる ザビエルにちなんだ井戸が再現されている。 |
【西側】 |
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館内の東側は比較的発掘が進んでいるが、西側の大半は寺の境内と言う事で墓地になっており、 この辺りは今後も発掘などは難しそう。 |
【西側土塁・西門】 |
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館跡の西辺も東辺、南辺土塁が復元され、堀跡が砂利で示されている。 また、中程から小規模な門跡が見つかっており、『洛中洛外図屏風』などを参考にして 復元されている。位置や規模から、屋敷内の内郭と外郭とを隔てる内門だったと考えられている。 |
【枯山水庭園跡】 |
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館跡の北西部に残る枯山水庭園跡。大内氏が最盛期を迎えた大内義隆の頃(1500年代前半)に造られたもので、 当時の大内文化を伝える貴重な遺構。大内氏滅亡後破壊を受けているが、比較的良好に当時の姿が 残っており、復元整備されている。 |
【北側土塁】 |
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北辺には高さ2m程の立派な土塁が復元されている。中程には虎口のような部分も設けられているが、 当時からここに虎口があったかどうかはよく分からない。 |
【十朋亭】 |
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館跡の南に残る十朋亭。大内氏とは関係ないが、幕末にここの当主が維新志士達の活動を 援護していたため、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文などの多くの志士が集まったらしい。 |