勝沼氏館跡
勝沼氏館跡について
甲州街道と鎌倉往還が通る交通の要衝に建てられた館跡。戦国期には武田信虎の弟である武田(勝沼)信友の拠点となったが、
それ以前から館自体ははあったらしい。天文4年(1535)に信友が北条氏との戦いで信友が敗死した後、信元が跡を継いだが、
永禄3年(1560)に謀反の疑いをかけられ滅ぼされたとされている。そぁそ最近では、信友敗死後に今川氏の館となった
可能性も考えられている。また、武田氏最後の様子を綴った理慶尼記で有名な理慶尼はこの館で育った。
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【内郭の空堀と土塁】 |
城の中心部に当たる内郭周囲の空堀と土塁。内郭の南側と西側は日川に面した要害となっているので、
北側と東側にのみ空堀と土塁が築かれていたらしい。箱堀と高さのある重厚な土塁が綺麗に整備されている。
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【二重堀】 |
北側の土塁の内側には、さらに堀と土塁が築かれ、二重になっている部分がある。内側の土塁の方が低いので、結構違和感がある。
これで防御的に有効だったのだろうか?
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【北門跡】 |
当初、東側が大手だったらしいが、途中からこちらの北門が大手となったらしい。空堀に木橋が再現されている。
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【内郭跡】 |
城の中心部に当たる広大な内郭跡。発掘調査の結果、多くの建物跡が発見されており、特に中心的な郭内としては
非常に珍しい工房の跡なども見つかっている。
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【番屋と武者溜】 |
北門入ってすぐのところにある番屋と武者溜。特に何が残っているわけでもない。入口を守る兵がいた場所だろう。
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【内郭 主殿跡】 |
内郭の中心的な建物である主殿と、その横に御座所や、客を接待する会所の建物跡の礎石並んでいる。
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【内郭跡】 |
これらの他にも、内郭跡からは発掘調査の結果、塀により機能ごとに区分された多くの礎石建物跡などが発見されている。
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【東門跡】 |
搦手にあたる東門跡。大手である北門よりしっかりとした造りで、横には櫓台や橋桁の石垣も残っている。
以前は木橋が復元されていたらしい。これらの遺構がどの時期のものかは分からないが、こちらが当初は大手だったらしい。
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【櫓台】 |
東門のすぐ横にある櫓台。東門を守る櫓が建てられていたのだろうと思うが、現状を見る限り、
土塁よりも低い櫓台って何だろう? と言う気もする。当時はもっと高かったのだろう。
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【東郭】 |
今度は東郭へ。館の拡張に伴って造られた郭で、徐々に東に拡大していることが分かっている。
内郭の建物は礎石建物だったのに対して、こちらは掘立柱の建物が主流だったらしい。
家臣の屋敷跡と思われる建物跡や工房跡の他、浄水施設などもが見つかっている。
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【浄水施設】 |
東郭内を東西に走る、城の施設としては非常に珍しい浄水施設。一見水堀のように見える二本の貯水池に水を通す事により、
沈殿物を除去して飲料水をつくり、内郭に供給していたらしい。他では見た事がない遺構。
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【外堀跡】 |
外堀の跡とその中の井戸跡が平面展示されている。空堀の底に井戸が掘られていたと言うことだろうか。
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【東郭土塁】 |
東郭の東橋に一部だけ再現されている土塁。かなりの規模だったと思われる。
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【深沢用水】 |
深沢川の下流から採取し、大善寺を抜けて勝沼氏館までひかれていた用水路の跡。館の外郭北側を通り、
この辺りでは幅4m程に拡大されて外堀の役割を果たしていたらしい。
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【地蔵】 |
理慶尼が建立した地蔵が再建され、北側の城址入り口に置かれている。オリジナルは内郭の太鼓櫓にあったらしいが、
現在はなくなってしまったらしい。理慶尼は、武田(勝沼)信友の娘で信玄の従兄弟にあたるが、信玄に勝沼氏が滅ぼされた後に
大善寺で尼となり、その後岩殿城に向かう武田勝頼一行を大善寺に泊め、武田氏の最後を綴っている。なんか複雑だったろうな。
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