【南側入口】 |
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現在は甲府駅へと通じる南側に橋が架かり大手のようになっているが、当時の大手は東側にありここに 橋はなかった。 |
【南側堀】 |
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南側の橋の周辺の水堀。信玄の時代はこの辺りも空堀だったらしいが、豊臣期に拡幅され水堀になったらしい。 |
【武田神社】 |
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方形の主郭内には現在武田神社、武徳殿などが建てられている。写真左は武田神社拝殿。 |
【信玄公使用の井戸】 |
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同じく主郭内にある信玄が使ったとされる井戸。主郭内にはここの他に姫の井戸も残っている。 |
【姫の井戸】 |
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躑躅ヶ崎館のなかでも生活の中心となる場所にあり、一説によると、信玄の息女誕生の折、産湯に使用したと言われている。 「茶の湯井戸」とも言われ、館内で茶を点てる時はこの井戸の水を用いたと言われている。 |
【大手門】 |
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主郭東側の大手門。現在は南側入り口に比べるとかなりひっそりとしているが、かつてはこちらが大手だった。両側は 水堀と高さのある空堀で外郭と隔たっている。 |
【主郭西側土塁】 |
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主郭の周囲は土塁で囲まれており、所々に石垣も見られる。 |
【主郭〜西曲輪 土橋】 |
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当初の主郭部と信玄期に増設された西曲輪の間は堀によって隔たれており、その間は土橋で結ばれている。 |
【主郭〜西曲輪 水堀】 |
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主郭部と西曲輪を隔てる水堀。土橋の南側は水堀になっているが、このあたりも豊臣時代に拡幅されたらしい。 |
【主郭〜西曲輪 空堀】 |
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主郭部と西曲輪を隔てる空堀。土橋の北側が空堀になっているが、かなり迫力がある比高差。この主郭側には豊臣期につくられた 天守台石垣が残っているが、現在立ち入り禁止エリアになっているので、見学不可。天守があったかどうかは分かっていない。 |
【西曲輪】 |
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当初は単純な方形プランの館だったが、信玄の時代に西曲輪が増設された。記念館が建っているとのことだったが、現在は 建物は何もなく広場になっていた。 |
【西曲輪 北側虎口】 |
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武田氏の城郭で特徴的な両袖枡形の形がハッキリと分かる。外からの見通しを防ぐために、数回にわたり改修し、 喰違いになった事が発掘調査で分かっている。 |
【西曲輪 北側土橋】 |
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虎口の先には形の良い土橋が残っている。この辺りは古城そのものの名残をとどめている。この北側には味噌曲輪があった。 |
【西曲輪 北側空堀】 |
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土橋の両側もかなりの比高差がある空堀になっている。 |
【味噌曲輪】 |
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西曲輪北側の馬出しにあたる味噌曲輪。わずかに土塁が残っている。石垣も残っているらしいが確認できなかった。 |
【西曲輪 北側】 |
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虎口や土橋の他にも、西曲輪の北側には土塁や石垣、石段などが所々に残っている。 |
【西曲輪 南側虎口】 |
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こちらは西曲輪南側の虎口。こちらも北側同様、形の良い両袖枡形になっている。一部石垣も残っている。 |
【西曲輪 みその橋、堀】 |
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西曲輪南側入口のみその橋。古い絵図にも載っているので当時からはあったものと思われるが、かなり狭い橋。 |
【梅翁曲輪】 |
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西曲輪南側の馬出しにあたる梅翁曲輪。この辺りは殆ど当時の面影はない。 |
【南側】 |
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北側に比べると、南側はかなり改変されており、当時の面影は少ない。かつてはこの道の両側にも 諸将の屋敷があった。 |
【大手】 |
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主郭部東側に位置する大手。武田氏得意の三日月堀などがあったらしい。現在も発掘が続いている。 |
【大手石累】 |
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農地の開墾により大きく破壊されているが、発掘調査によって階段などが確認されている。 |
【信玄の墓】 |
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二十四将の一人、土屋昌次邸があった場所。江戸時代にここから信玄の棺が出たので、信玄の墓と定められたらしい。 |
【積翠寺】 |
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要害山麓の寺で、信玄産湯の井戸がある。駿河の今川勢が今川が攻めてきた時に、信玄の母大井夫人は懐妊中で要害山へ 避難し、この寺で信玄を産んだらしい。 |
【要害山】 |
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詰の要害として築いた山城『要害山城』がある。今回は見学が出来なかった。 |