川中島関連史跡
川中島関連史跡
【八幡原史跡公園】 |
5度の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になったのが八幡原。ここでの戦いが最も激しく、副将・武田典厩信繁、
山本勘助ら勇将が戦死した。また、その時社殿が破壊された為、信玄は海津城代高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させ、
社領として約1haの土地を寄進し、現在史跡公園となっている。境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀之跡の碑、
首塚などがある。現在は公園を囲むように桜が植えられ、芝生広場や池なども整備されて子ども達の遊び場となっている。長野市立博物館や
プラネタリウムも併設されている。
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【土塁】 |
八幡神社を中心に方形に低い土塁が残っている。信玄本陣を示す桝形陣形跡と言われる。
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【首塚】 |
永禄4年(1561)の決戦のあと、海津城将であった高坂弾正が、戦場に残された6千とも8千とも言われる遺体を敵味方なく
集めて手厚く葬ったとされる塚。謙信は高坂弾正の行動に感激し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、
北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に塩を送ることを決めたという逸話は有名。以前はこの附近に
いくつもの首塚があったらしいが、現在、塚が残るのは2つのみ。しかし、塚を壊して田畑にした者は、悪い病気にかかったり、
気がふれてしまうこともあったという。
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【三太刀七太刀】 |
八幡社本殿の東側の土塁横に建つ三太刀七太刀の石碑。謙信・信玄一騎討ちの場所と伝えられ、三度斬りつけ
軍配団扇には七つの傷が残っていたことから、こう言われている。
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【執念の石】 |
謙信・信玄の一騎討ちを見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤は傍らにあった信玄の槍で馬上の
謙信を突いたが、槍先ははずれ一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、
その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石・・・ と言うことになっているが、実際にこんな石を
槍で突き通すのは無理だろう。
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【逆槐(さかさえんじゅ)】 |
永禄4年(1561)の川中島合戦で、山本勘助の進言によって「啄木鳥(きつつき)の戦法」をとることにした武田信玄は、
八幡原のこの場所に土塁を積み重ね、矢来(やらい)を組み、盾をめぐらして上杉軍挟撃の本陣をおいた。その際、土塁の
土留めとして自生していた槐(えんじゅ)の木を逆さにして打ち込んだものが、やがて芽を出し大樹になったと伝えられる。
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【山本勘助の墓】 |
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで討ち死にした山本勘助は、陣ヶ瀬東高畑に葬られ、五輪塔が建てられた。
ここは今でも「勘助塚」とも呼ばれている。元文年間(1736~1741年)に松代(まつしろ)藩士鎌原重孝(かんばらしげたか)が
千曲川の増水等による古墳の荒廃を憂いて墓の再建に着手するが、志半ばで他界。その子重栄と原正盛らは重孝の
遺志を受け継ぎ、元文4年(1739)に私財を投じて川の自然堤防に建っていた信州柴阿弥陀堂(しば・あみだどう)の境内に
遺骨を移し、墓碑を建立した。文化6年(1809)には勘助の没後250年にあわせて、重孝の孫鎌原重賢が末長く墓が守られる
ようにと、中台を設け土台を高く石積みし現在の墓となった。碑面には「山本道鬼居士墓」と刻まれている。
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【大堀館跡】 |
弘治元年(1555年)の第2回川中島の戦いで、武田軍と上杉軍が犀川をはさんで長期にわたる対陣をした際、信玄の本陣と
なったところとされている。このとき、謙信は善光寺横山城に着陣。大塚館は犀川を隔てて善光寺に対し、東は千曲川対岸に
海津城と呼応する場所に位置した。別名「町田氏屋敷跡」ともいわれ、信玄・勝頼の二代に仕えた地元の土豪町田の居館跡
として伝えられている。(一説には綱島豊後守保品の館)町田氏は、武田家滅亡後、武士をやめこの地に帰農した。その後、
居館は消失、近年まで外郭に堀や土塁をめぐらした中世居館の遺構を目にすることができたが、現在は更北中学となり、校地内に
館跡の石碑が建つのみ。
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【堀跡】 |
小学校脇の道が当時の堀跡あたりと見られる。若干道が曲うねっていてわずかに名残をとどめている。
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