| 【桶狭間の戦い】 |
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| 永禄3年(1560)5月19日、尾張領主の織田信長が僅か三千余の手勢を率いて 二万五千余の駿河・遠江・三河の領主今川義元の本陣を急襲し打ち破った戦い。 信長の天下統一の第一歩となる有名な戦い。 |
| 【桶狭間古戦場公園】 |
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| 今川義元討死の地とされる桶狭間古戦場公園。この辺りは昔から田があり田楽坪と 呼ばれていた場所で、信長公記によると義元討死にの地は深田の傍らの低地と記されており、 この辺りと推測される。義元の墓や首洗いの泉、馬つなぎのねずなどがある他、 信長、義元の銅像なども建立されている。 |
| 【桶狭間古戦場公園 墓石】 |
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田楽坪のねず塚に埋められていた駿公墓石。造られた年月は不明だが、当時の村人が
敗軍の将をひっそりと供養していたものと思われる。昭和28年に偶然発見され、
現在は公園内に置かれている。
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| 【桶狭間古戦場公園 首洗いの泉】 |
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今川義元の首級をこの泉で洗い清めたと言われており、昭和61年の区画整理まで
清水が豊富に湧き出ていたらしい。ここから湧き出る水の勢いで水汲み用の桶が廻る様子から
『桶廻間』と呼ばれるようになり、それが桶狭間になったとも言われている。
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| 【桶狭間古戦場公園 石碑】 |
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公園近くの鞍流瀬川から、正面には『桶狭間古戦場』、裏面には『文化十三年丙子五月建』と
記された石碑が発見され、現在公園の一角に置かれている。
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| 【桶狭間古戦場公園 ねずの木】 |
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公園内にある枯れたねずの木。着陣した今川義元が泉で水を飲む為に馬を繋いだ
木と言い伝えられている。この木に触れると熱病にかかると言われている。
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| 【桶狭間古戦場公園 ジオラマ】 |
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公園内には、当時の地理状況を表した園池が造られており、
園路が街道や進軍ルートとなっている。
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| 【大池】 |
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桶狭間古戦場公園の南に位置する大池。
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| 【長福寺】 |
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天文7年(1538)開山の浄土宗の寺院。
本尊の阿弥陀如来像は、義元の茶坊主だった林阿弥が義元供養の為に納めたものと伝えられている。
また、寺宝に義元と家老松井宗信の木造や合戦期がある。
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| 【瀬名陣所跡】 |
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今川軍の先発隊、瀬名氏俊の陣所跡。東西15m、南北38m程の広さで当時はトチの林だった。
瀬名氏俊は戦いの二日前に桶狭間に着陣し、義元本陣の設営にあたっていた。
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| 【戦評の松】 |
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合戦の齋、瀬名氏俊がここにあった松の下に武将を集めて戦いの評定をしたと言われている。
当時の松は伊勢湾台風で枯れ、現在の松は3代目のもの。
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| 【桶狭間神明社】 |
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桶狭間の戦いの時、瀬名氏俊が酒を供えた桶が宝物として保存されている。
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| 【七ッ塚】 |
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義元を討ち取った後、信長は村人に戦死者を丁重に葬るように命じて引き上げた。
村人は山裾に沿って7つの穴を掘り戦死者を埋葬し塚を建てて弔った。
これらは七ッ塚と呼ばれ、取り壊すものは祟りがあったと言われている。
その塚の一つが、現在も民家の一角に残されている。
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| 【桶狭間山】 |
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古戦場公園の東の丘陵地帯で、信長公記に『今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり』と
書かれている場所。このあたりに義元の本陣が置かれていたと思われる。
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| 【桶狭間古戦場 豊明】 |
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| 一般的に今川義元が討ち取られた場所は、上記のおけはざま山の西側山麓辺りが有力視されているが、 おけはざま山の北側の豊明市も伝説地として頑張っており、何故かこちらが国の史跡に指定されている。 ちなみに、2015年に再訪した際は、多数のボランティアガイドがパンフレットを配ったりと、 更に頑張っていた。この勢いだと、そのうちこっちが本物になりそう。 |
| 【桶狭間古戦場 豊明 駒繋ぎのねず】 |
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豊明にもあるねずの木。田楽坪同様、着陣した今川義元が泉で水を飲む為に馬を繋いだと
言われている。やはりこの手の言い伝えは結構適当なものらしい。
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| 沓掛城 | 大高城 |
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| 鷲津砦 | 丸根砦 |
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