関ヶ原古戦場
東軍関連
【桃配山】
徳川家康が最初に陣取った場所で、戦の後半に床几場に陣を移すまでの間、ここで指揮にあたった。 家康が腰掛けとして使ったと伝えられる石も残っている。
【床几場】
戦の終盤になって家康が陣を移した場所。石田三成の本陣がある笹尾山からは東南に1kmの距離で、 ここで家康は陣頭指揮をとった。また、戦が終わるとここで部下の取ってきた首の実検をした。 現在見られる土塁などは天保12年(1841)に幕府の命によりこの地の領主竹中家により築かれたもの。
【本多忠勝陣跡】
戦いの当初に家康が本陣とした桃配山の前方に陣を構え、本陣を守り 梨木川北方の島津隊と奮戦した。
【田中吉政陣跡】
床几場の近くにある田中吉政の陣跡。笹尾山麓から討って出る先手の兵と激突し、 激しい白兵戦が展開された場所。合戦後に石田三成は残党狩りの田中吉政配下の兵により捕まった。
【藤堂高虎・京極知陣跡】
藤堂高虎・京極知隊は中山道の南に位置する芝井に陣を構え、松尾山や山中村などの西軍に備えた。 小早川隊が裏切ると、大谷隊と小早川隊との戦いに加わっていった。
【岡山】
関ヶ原を見渡せる岡山の山頂には黒田長政と竹中重門が陣を敷いていた。 戦いが始まるとここから烽火が上げられ、東軍に攻撃の合図が出された。 戦いの際に生駒一政が持参してきた金刀比羅宮の御神像を祀った金刀比羅神社が 現在は建てられている。
【細川忠興陣跡】
細川忠興が五千余りの兵を率いてこの辺りに布陣したと言われる場所。黒田長政らと共に 笹尾山の石田三成軍と激しく戦った。細川忠興は関ヶ原の前に正室のガラシャを西軍により 自害に追い込まれていた。
【松平忠吉・井伊直政陣跡】
東首塚のすぐ横にある松平忠吉・井伊直政陣跡。約6千の兵で陣を構えた。 午前8時頃、本多忠勝から開戦を促されて宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、 方向を転じて島津義弘の隊を攻撃した。
【福島正則陣跡】
東軍の先鋒となった福島正則の陣所跡。ここで南天満山の宇喜多隊と対陣した。 正則自ら鉄砲隊を指揮して宇喜多隊に一斉射撃を浴びせたと言われている。 現在は春日神社となっており、境内には関ヶ原合戦屏風図にも描かれている 樹齢800年以上と推定される大杉が残っている。