関ヶ原古戦場 その他の史跡



【開戦地】
image-1  慶長5年9月15日午前8時、霧が薄くなり視界が広がると、福島正則は井伊隊に先陣を とられまいと宇喜多隊に一斉射撃を浴びせ、それを見た井伊隊も島津隊の陣に向かって 攻撃を開始して関ヶ原の合戦が始まった。


【決戦地】
 笹尾山の眼下に位置する決戦地。西軍の敗色が濃くなり石田隊は東軍の集中攻撃を受けながらも 最後まで頑強に戦い、決戦地のあたりは最大の激戦地となった。
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【東首塚】
 関ヶ原の戦い直後にこの地の領主の竹中家により築かれた首塚で、家康により実検された将の 首が葬られている。現在は山王権現社本殿と唐門が脇に移築され、東西両軍の戦没者供養堂となっている。
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【東首塚 首洗いの古井戸】
image-1  家康による首実検の為、この井戸の水を使って首級の血や土が洗い流され、首装束されたと言われている。


【西首塚】
image-1 image-1  戦死者数千の首級を葬った場所。江戸時代に十一面千手観世音と馬頭観世音の堂が建てられ供養されている。


【博物館】
image-1 image-1  床几場の近くに建てられた博物館。関ヶ原合戦関連の資料が展示されている。


【伊吹山】
image-1  関ヶ原の北西に位置する山。関ヶ原の合戦後、敗走した石田三成は伊吹山に逃れていった。



【不破関跡】
 古くから交通の要衝だった関ヶ原には、合戦以前の遺構も残っている。主戦場となった盆地の南側には 672年壬申の乱後、律令体制の整備に伴って8世紀初めに設置された不破関の土塁の一部が残っている。 東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関に数えられているらしい。
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【関の藤川】
image-1  関所の近くを流れている事からこう呼ばれていた。672年の壬申の乱では、 両軍がこの川を挟んで布陣するなど、古くから有名な川。