広島城
広島城について
豊臣政権下で西国最大の大名だった毛利輝元により天正17年(1589)に築城が開始され、慶長4年(1599)に完成した巨大城郭。太田川河口の三角州に広い堀を三重に巡らせた平城で、五重の天守の他、複数の御殿と88基の櫓、10基の門など築かれていたと言われている。しかし、完成の翌年の関ヶ原の戦いで、西軍の総大将だった輝元は萩へと移され、その後福島正則が49万8000石で入城した。しかし、福島正則も元和5年(1619)石垣の無断修築を口実に改易され、その後浅野氏が入城し、以降明治維新まで浅野氏の居城となった。明治期になり、日本帝国陸軍の施設が次々と建てられ、小天守などの多くの建物が取り壊されたが、天守、本丸中御門、二の丸表御門、太鼓櫓などは撤去を免れ戦前まで残っており、天守は国宝に指定されていた。しかし、昭和20年8月6日投下された原爆により、天守を初めとする全ての建物が倒壊・焼失した。戦後天守が外観復元され、近年二の丸の建物群が木造で当時の姿に復元された。
|