天正14年(1545)頃、因幡守護の山名誠道が久松山に築いたのが始まりと言われる。
天正9年(1580)に、毛利氏の重臣の吉川経家が城主となるが、同年に羽柴秀吉に行われた
兵糧攻めは有名。吉川経家は城内の凄惨な状況を見て降伏し、城兵の命と引き替えに自害している。
その後は織田家の家臣、宮部継潤が城主となり、近世城郭としての整備される。関ヶ原の後は
池田長吉が入城し、山頂部と山麓部が大改修され、山城と平山城の両方を併せ持つ近世城郭となった。
現在見られる鳥取城の遺構の大半はこの頃に整備されたものと思われる。
以後、消失や増改築を繰り返しながら、明治維新まで池田氏が在城した。
明治維新後は建物の解体が行われ、昭和18年の鳥取大地震では石垣が崩落したが、
近年、石垣などの復元作業が進んでいる。
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