谷戸城
谷戸城について
八ヶ岳山麓の比高30m程の茶臼山に築かれた平山城。大治5年(1130)に戦国大名の武田氏に繋がる甲斐源氏の祖である源義清が甲斐に配流となり、その子清光(逸見清光)によって築かれたのが始まりと言われている、かなり古い城郭。戦国期には、武田晴信の信濃侵攻の中継基地となっていたと思われる。天正10年(1582)武田家が滅亡した後、徳川家康と北条氏直とが甲斐の領有権を争った天正壬午の戦いでは、この地域は北条氏の勢力下となっており、新府城に入った家康と対峙した頃に北条氏により修築されたと思われる。現在は国の史跡として整備されており、非常に特徴的な堀と土塁が整備されている。
|
【北側】 |
八ヶ岳裾野の傾斜地に築かれているため、南側からの比高は30m程あるものの北側との比高はその半分程度しかなく、この方面が弱点となっている。と言う事もあり、北側はしっかりと規模の大きな堀と土塁により分断されている。堀幅は約10mに及ぶ規模の大きな箱堀で、一周してきて思ったが、主郭部とは規模や形状が異なっており、時代が違うのかもしれない。北条氏によって修築された部分だろうか?
|
【四の郭】 |
北側から上り始めてまず見えてくるのが四の郭。外縁を低い土塁で囲まれているのみで、堀は掘られていない。また、表土のすぐ下から縄文土器が出土している事から、殆ど手を加えていない地形だった事が分かっている。確かに、見た感じ削平も甘くダラダラとした斜面になっている。中心部の他の郭とは全く造り異なる事から、造成途中で放棄された可能性もある。
|
【北側帯郭】 |
四の郭から主郭部に進んでいくと、二の郭の北側周囲を取り巻く帯郭に至る。この帯郭は東側まで続いており、五の郭との連絡路にもなっていたと思われる。二の郭の土塁下には空堀が掘られていたらしい。
|
【二の郭】 |
北側帯郭から喰違い虎口を通り二の郭・三の郭へ。二の郭と三の郭は一の郭周囲の一体化している郭だが、東側半分を二の郭、西側半分を三の郭と呼んでいるらしい。これらの郭の土塁と空堀との位置関係がこの城最大の特徴で、何故か土塁の内側に空堀が掘られている。こんな土塁と空堀は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡でしか見た事がない。とすると、この城の起源は一気に数百年遡ることになってしまうが、そういう事なのか?
|
【二の郭・三の郭北側虎口】 |
二の郭・三の郭の境、北側に設けられている虎口。喰違い虎口になっており空堀には幅2m程の堀残しの土橋がかけられている。また、虎口の西側の少しもっこりした平場は、物見台として造成されたものらしい。
|
【一の郭】 |
輪郭式の中央部、城山の最高所に位置する一の郭。周囲に高さ1m~2m程の土塁が築かれているが、堀は見られない。東西には虎口跡とみられる土塁の開口部があり、礎石のような石も見つかっているが、他の虎口とは違い喰違いになってはない。また、虎口周辺からは改修の跡も見つかっているらしい。
|
【三の郭】 |
一の郭の周囲の西半分をしめる三の郭。特に東西を仕切る土塁などがあるわけでもないのに、何故このような中途半端な分け方をしているのかはよく分からない。基本的に二の郭と造りは変わらず、高さ1m~2mの土塁の内側に深さ1m程の空堀が巡る構造。ただ、東側の二の郭に比べると幅が狭い上に削平が甘く、自然地形に近い帯郭と言った感じ。この郭からは、一の郭から投げ捨てられたと考えられる土器が多く出土しているらしい。ヒドい扱いだな・・・
|
【二の郭・三の郭南虎口】 |
二の郭・三の郭の南虎口。こちらも北虎口同様、喰違いになっているが、南側の帯郭方面からこの虎口を通り、西側の三の郭空堀の堀底に入る造りだったらしい。そのため、ここの空堀は浅く広く造られている。
|
【南側帯郭】 |
南虎口の南側は一応帯郭と言うことになっており、確かに一部土塁や削平地が見られるものの、まぁほぼほぼ普通の斜面だな。
|
【五の郭】 |
東側の斜面に設けられた小さい郭。四の郭同様、低い土塁に囲われているのみの削平も甘い郭。発掘調査の結果、土器や青磁版の破片などが見つかっており。また、20cm程下にからは硬く締まった土の層も見つかっており、当時この辺りは人の往来が頻繁だった事が分かっている。
|
【東側帯郭】 |
五の郭北側の東側はほぼ自然地形と見られる斜面になっており、斜面の下には北側から続く長大な空堀が見られる。この空堀は東側で竪堀となっており、当時は堀底道としても使われていた事が分かっている。
|