天文6年(1537)に斎藤道三の猶子である斎藤正義によって築かれたが、斉藤正義は
天文17年(1548)久々利城で謀殺され、城も放置された。
その後、永禄8年(1565年)に東美濃に侵攻した織田信長により、森可成が城主として封じられ、
以来、可成・長可・忠政父子3代の居城となり、この時期に大きく改築された。
慶長5年(1600)、関ヶ原後に徳川家康の命により、森忠政は信濃川中島に転封となり廃城となった。
この際に天守・諸櫓等を一切取り壊され、木曽川に流して犬山に運ばれ、犬山城の増築・改築に
使われたと言われているが、昭和40年に行われた犬山城の解体修理の結果、天守閣を移築した
痕跡はなく、この『金山越え』は否定されている。
現在も石垣が随所に残り、国の史跡に指定されている。
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