福山城
福山城について
新規築城を厳しく制限した武家諸法度後の元和8年(1622)に完成した最後の大規模な近世城郭で、広島城を追われた福島正則の後に備後に入った水野勝成によって築かれた。水野勝成は家康の従兄弟にあたる西国最初の譜代大名で、西国の押さえとして重要視された。築城にあたっては伏見城の建物が移築されるなど幕府から強力に支援され、御三家でさえ許されなかった五重天守に6基の三重櫓が並ぶ10万石の城としては異例の大城郭となった。その後、城主は入れ替わりながらも廃藩置県に至るまで備後福山藩の藩庁として機能し続けたが、明治初期に多くの櫓が壊され、残っていた天守や御殿なども昭和20年の大福山空襲により焼失した。伏見櫓と筋金御門のみが焼失を免れ、昭和41年には天守などが復元されている。
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