南北朝の頃からこの一帯は諏訪氏の所領となり、その一族である高遠氏が三峰川と
藤沢川に囲まれた天然の地形を利用して城を築いたのが始まり。高遠氏は7代続いたが、
武田信玄により滅ぼされ、それ以降は信玄の南信濃攻略の重要な拠点となった。
この頃山本勘助、秋山信友に命じて大改修され、小規模ながらも三重の堀を巡らせた
要害となり、信玄の弟の信廉、四男の諏訪(武田)勝頼、五男の仁科盛信などの近親者が
城主に置かれた。
信玄亡き後、織田勢の侵攻に対して当時の城主だった仁科五郎盛信は和睦交渉を断固
として拒否し、5万の大軍に3千の兵で対抗して玉砕し、これが武田氏最後の戦いとなった。
その後、一時的に織田氏の領地となったが、本能寺の変後、武田氏の旧臣で高遠氏の
代官だった保科氏が高遠城を乗っ取り徳川家康に属して城主となった。
江戸時代になると高遠藩がおかれ、この地域の政治、経済、文化の中心地となり、
保科氏、鳥居氏、内藤氏と約270年間にわたり藩主の居城として続いた。
明治5年(1872)、廃藩置県により建物はすべて民間に払い下げられ荒廃したが、
現在では高遠城址公園として整備され、桜の名所となっている。
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