Japanese Castle

府内城

府内城について

 長年にわたり豊後を治めていた大友氏が文禄2年(1593)に豊臣秀吉によって追放された後、慶長2年(1597)に石田三成の妹婿だった福原直高が、府内12万石を与えられ海に面した高低差が全くない平地に築き始めた平城。しかし、直高は家康に難癖をつけられ僅か二年で改易。その後の早川長敏も関ヶ原で西軍につきあっという間に失脚。慶長6年(1601)に竹中重利が入り、この頃に縄張りの大半は完成したものと思われる。当時は三重の堀に囲まれた豊後最大の規模で、櫓や城門の数も九州では熊本城や小倉城に次ぐ多さだった。しかし竹中氏も長く続かず、日根野氏を経て万治元年(1658)に松平氏が入り、以後松平氏が明治まで10代続く、ありがちなパターンとなった。寛保3年(1743)の大火によって天守をはじめとする多くの建物が焼失。さらに明治6年(1873)に廃城となり、多くの建造物は壊され、堀の一部も埋め立てられた。しかし、明治10年(1877)の西南戦争時の際、この城も攻められたが建物の多くがなかった状態でも撃退している。その後、残っていた建物の多くも昭和20年(1945)の大分空襲で大半が焼失し、現存する櫓は二基のみとなった。近年になり4基の櫓が復元され、現在は中心部のみが大分城址公園として公開されている。
【二の丸】 【本丸】 【その他のエリア】