臼杵城
臼杵城について
永禄4年に第二次門司城の戦いで毛利軍に敗北した大友宗麟が、毛利の追撃に備えて永禄5年(1562)に丹生島に築き始めたのが始まりとされている。現在は周囲を埋め立てられているが、当時の丹生島は周囲を海に囲まれた天然の要害で、実際には宗麟以前からも使われていたと思われる。臼杵城は防御面だけで無く、海に面していたため南蛮貿易の拠点としても都合が良く、宗麟の隠居城として使用された。天正14年(1586)には島津軍2000の兵に攻められ、城下が焼き尽くされたが、国崩しを使って抗戦し退けている。大友氏が秀吉によって取りつぶされた後、福原直高、太田一吉が入城し、関ヶ原後は稲葉貞道が5万石で入城した。この稲葉貞道とその子の典道の頃に近世城郭として整備され、本丸・二之丸には三重の天守以外に三重櫓一基、二重櫓19基、平櫓3基、城門9棟など多くの建物がが建てられた。その後、明治期に廃城となるまで稲葉氏が続いた。明治6年(1873)に廃城となり、2基の櫓を残して他の建物は全て壊されたが、明治10年(1877)の西南戦争時には、士族が籠もるなどして使われ戦場となった。明治期以降に周囲が埋め立てが進められ、現在は海白の面影はなくなってしまっているが、島上部の本丸と二之丸が臼杵公園として整備されている。
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