久留里城


【上総久留里城跡】
別名『雨城』と呼ばれる。戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真理谷武田氏の勢力下にあり、久留里城も その一族の居城だった。天文年間(1532〜1555)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を 久留里城に移した。永禄7年(1564年)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北し、久留里城も一時 北条氏の手に落ちている。しかし、2年後里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧する。 その後、北条氏の勢力に押され、天正5年(1577年)里見義弘は北条氏と和睦した。義弘の死後、家督を継いだ 里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれている。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の 小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収された。以後、関東は徳川氏の 支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7年(1602年)には土屋忠直が2万石で入城した。 3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679年)領地召し上げ、廃城となった。約60年後の寛保2年 (1742年)黒田直純が3万石の藩主となり、幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興した。黒田氏の 治世は初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、明治5年(1872年)、城の建物は解体され、 久留里城は廃城となった。


【天守閣】

【天守台】

【土塀跡】

【櫓台】

【土塁】


【本丸〜二の丸】


【二の丸】

【長屋塀跡】

【雨城八幡神社】

【新井白石像】
 江戸の土屋邸で産まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18〜21歳までの青年期を久留里で過ごした。

【水道木管】

【井戸掘り櫓】


【波多野曲輪】


【弥陀曲輪】


【薬師曲輪】


【鶴の曲輪】


【久留里曲輪】


【天神曲輪】


【男井戸・女井戸】
 伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧、良弁によって掘られ、「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれていた。 戦国期、この場所に里見義堯が城を築くと、敵対する北条氏が何度か来襲するが、この井戸により籠城にも耐えることが出来た。 江戸時代、藩主の黒田直亨の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われている。


【お玉が池】
 久留里城の二の丸は、水源がなく不便な場所だった。城王の里見義堯は、家臣の兵馬に池を掘るように命じた。 兵馬が池を掘っている最中、兵糧庫が焼失する事件が起こリ、火の不始末の疑いで、兵馬は捕われの身となる。 城将小川秀政の娘の『お玉』は、これを哀れんで、かわりに池を掘りはじめるが、兵馬は打ち首となった。その後、この疑いが 解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったと言われている。


【火薬庫跡】


【西尾根 堀切】
 尾根筋の通路を断ち切るように設けられている。


【西尾根 堀切】
 尾根筋の通路を断ち切るように設けられている。


【西尾根】


【南尾根 堀切】

【南尾根 堀切】


【東尾根 堀切】

【東尾根 堀切】

【東尾根 曲輪】

【東尾根】


【駐車場】


【古戦場跡】


【三の丸跡と内堀跡】


【大手門付近】


【久留里妙見神社】


【眺め】