15世紀後半、西相模一帯を支配していた大森氏の時代がここをを根拠地としたのが始まり。
このころの小田原城の位置は正確には分かっていないが、規模の小さな山城であったと考えられている。
明応4年(1495)伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が大森氏を攻め小田原城を手に入れてから、
関東の覇者北条氏の本城となり、全国屈指の雄大な規模を誇っていた事で知られている。
天正18年(1590)豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに
総延長9Kmに及ぶ土塁や空堀の大城郭を巡らし、町屋や農地までも城下に取り込んだ壮大な城構(総構)
が築かれ、日本最大の中世城郭に発展した。
この時代に造られた土塁や空堀は、現在でも鉄道を挟んだ西側の丘陵地や市内の各所に残されている。
江戸時代になると範囲を縮小されたが、江戸城の西の守りとして重視され、徳川氏の重臣である
大久保氏や稲葉氏が城主となり、北条氏時代の巨城を「お留山」等によりそのまま管理しながら、
現在の本丸や二の丸、三の丸一体が近世城郭に改造され、高い石垣や城壁を持ち天守がそびえる
石垣の城姿になった。この工事は主に寛永9年(1633)から貞享2年(1685)まで城主であった稲葉氏の時代に
幕府からの援助を受けて行われた。それ以後、江戸時代初期に城主であった大久保氏が再び城主になるが、
この時期に整えられた小田原城が震災による建替えや修復を繰り返しながら幕末まで引き継がれた。
明治3年(1870)に廃城となり、売却された後に次々と解体された。現在は、本丸・二の丸と総構えの一部が
国の史跡に指定されている。
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