天正9年(1581)に武田勝頼によって築城着手され、僅か3ヶ月で築かれた武田氏最後の城。
それまで武田氏の本拠だった躑躅ヶ崎館から移転したが、織田勢の侵攻を前に、
自ら城に火を放ち退去し、岩殿城を目指す途中で追い詰められて自害し武田氏は滅亡した。
七里岩台地上の天然の要害に築かれた東西550m、南北600mに及ぶ広大な城だったが、
在城僅か3ヶ月あまりで廃城となった。
一説には、織田方と通じていた穴山信君の進言により築城する事となり、思惑通り、
築城の材木調達係の木曽義昌の謀反から武田氏滅亡につながったとも言われている。
武田氏滅亡後は、北条氏直の軍と対峙する徳川家康の本陣としても使用された。
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