出羽の南端の米沢盆地に築かれた平城。
暦仁元年(1238)、鎌倉幕府の重鎮・大江広元の二男・時広が置賜郡長井荘の地頭となり、
長井氏を称して居館を構えたのが始まりと言われているが、当時の城は一重の堀に
柵をめぐらせた程度の小規模な館だったと思われる。
南北朝争乱期の天授6年(1380)長井氏は伊達宗遠(8代)に滅ぼされ、以降伊達氏の支配下となる。
戦国期の天文17年(1548)には伊達晴宗(15代)は本拠を米沢に移し、本格的に築城される。
17代の政宗の頃、豊臣秀吉の奥州仕置により政宗は岩出山城に移封され、212年に及んだ
伊達氏の支配が終わる。その後、会津若松の蒲生氏郷の属城となったが、1598年(慶長3年)に
五大老の上杉景勝の会津移封に伴い上杉氏の支城となる。この頃、直江兼続が城主を務めている。
関ヶ原後、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封された事により、上杉氏の居城となる。
この頃、直江兼続により城の大修築と城下町に整備が行われたが、減封された後の改修だけに、
石垣を使わず費用を抑えられている。以後260余年間、江戸時代を通じて上杉氏の居城となり、
この間に江戸時代屈指の名君として知られる上杉鷹山などが藩主となっている。
明治6年(1873)13代茂憲の時に城郭は取り壊されて公園となった。
現在、本丸と二の丸の一部は松が岬公園となっており、本丸跡には上杉神社が祀られている。
また、上杉神社境内にある稽照殿には上杉謙信、景勝、直江兼続が愛用した遺品が多く残っている。
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