名護屋城
名護屋城について
豊臣秀吉による朝鮮出兵の前線基地として、天正19年(1591)に築かれた総石垣作りの大城郭。大阪城に次ぐ規模を誇り、五重の天守や御殿も建てられていたが、加藤清正、寺沢広高などが普請奉行となり僅か5ヶ月(8ヶ月とも)の突貫工事で城の主要部が築かれたと言われている。五重7階天守の他、広大な御殿建築、茶室や能舞台などが築かれた絢爛豪華な城で、周囲には出陣する諸将の陣屋が130以上も築かれ人口も一時は20万を超え、事実上の当時の日本の中心地となっていた。実際に秀吉も1年3ヶ月の間、この城に滞在している。慶長4年(1599)の秀吉の死後、14万人が動員された朝鮮出兵が終了し全軍が撤収。名護屋城も築城から僅か7年程で役割を終え廃城となった。その後、城の建物は取り壊され、唐津城の資材として利用されたと言われている。寛永15年(1638)の島原の乱後、軍事拠点として再利用されないよう徹底的に破壊された。現在は国の特別史跡に指定され、整備されている。
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陣跡